影島大橋の後は、釜山臨時首都記念館、アミドン(日本墓地があったところ)に行きました。こちらについて詳しくご紹介します!
釜山臨時首都記念館とは?
北朝鮮と韓国の戦争が1950年に始まり、ソウル周辺が北朝鮮に攻められ釜山が臨時首都になりました。
※1950年6月25日~1953年7月27日(現在も休戦中です)このため韓国人は北朝鮮に行くことができません。政治の何らかのイベントではない限り。韓国では625戦争といいます。
当時の大統領 李承晩(イ・スンマン)は、1950年6月28日にソウルにあるハンガンの橋を爆破しています。ソウルから南に逃げるためにはこの橋を渡らなければならないため6月25日に戦争がはじまり6月28日でソウルが危険だと軍は気づいてたんですね。
6月28日には、大統領はテジョンにいたそうです。そこでハンガンの橋を爆破します。大統領は多くの市民を皆殺しにしたんですね。結果的に鉄道の橋はそのままなので、北朝鮮軍がさらに南へ侵略をしていったわけです。
北に比べれば釜山はこの戦争で被害は少ない方です。 影島大橋も戦争が終わったらの待ち合わせ場所としてですが、何日も家族を探しても待っても会えなかった人は、生きる力を無くし橋から飛び降りる人が多かったそうです。
1925年から慶南都庁の庁舎として使用し現座は、東亜大学博物館として利用しています。現在の慶南都庁は、チャンウォンにありますよ。
日本式の瓦屋根。釜山が臨時首都になっている期間は、ソウル大学などの大学が釜山で臨時大学で使用していたそうです。
朝鮮式の瓦屋根
国際市場大火災後の写真です。
名:임시수도기념관
住所:부산광역시 서구 임시수도기념로 45
最寄り駅:1号線토성駅2番出口徒歩10分
アミドンとは
韓国は、日本の植民地時代に多くの日本人が住んでいました。日本人が住んでいましたので墓地や火葬場もありました。1950年に始まった北朝鮮と韓国戦争で、北から逃げてきた人は家がありません。
逃げてきた人に政府は「あなたはここに住みなさい」と住所だけ渡されます。このアミドンの住所を渡された人はびっくりですよね!
日本人の墓地!!?となりますが、生きなければならない。生活しなければならない。とのことで、墓石を家の土台にして家を作ります。この地域は、家の幅が、甘川村よりも狭いです。狭い理由は墓石の間隔だそうです。
今現在も人は住んでいます。高齢者が多いですが、お金がなくこの土地を離れない人もいますが、ここで苦労して生活した記憶があるからわざとここに住んでいる人もいるそうです。
甘川村と同じで、共同トイレ、シャワーなどありません(銭湯に行くしかないです)。洗濯機などは今は共同で使える場所を作ったそので少しは生活が便利になったかと思います。
ガイドさんは、この土地を多くの人に知ってもらいたいと思いガイドを始めた時は、住民に怒られたそうです。当たり前ですよね。住んでいるのに静かにしてほしいですし、ガイドさんの情熱を少しずつ理解した住民の方は最近は、ガイドさんが来たら
また来たね!と優しく受け入れてくれるそうです。私個人的には、この場所はこのガイドさんの話を聞きながら当時の歴史を知る方が良いと思います。
トソン駅から歩いて行ける距離ですが、甘川村に行く道にありますがこちらは、住民の方のプライバシーもありますので住所はあえて記載しません。
観光したい方は、知り合いのガイドさんに頼むことは可能です。
今後も釜山情報を更新していきますのでお楽しみに!
釜山についてこんなこと知りたい!ということもあれば、お問い合わせください。
今日も最後まで読んで頂きましてありがとうございました!